ニチモウモノガタリNICHIMO Story

1.創業~創立

林田甚八と岩本千代馬

明治43年、ニチモウの前身「高津商店漁業部」が下関の地で発足しました。発足後ただちにトロール船の建造にとりかかり、やがて信徳丸・信幸丸ほか2隻のトロール船を保有して操業に入りました。トロール漁法を本場のイギリスで学んだ林田甚八と岩本千代馬が中心となり、西細江町に網の仕立て工場を設けました。高津商店漁業部で染め付け、仕立てられた網は、日本では初となるマニラ麻を原料に用いた「マニラ網」でした。

ブームとなったトロール漁業ですが、大正期に入ると衰退。その局面を乗り切るため旧・共同漁業が設立されました。高津商店漁業部は持ち船を譲渡し、解散となりましたが、製網部門は引き続き漁網・漁具の製造販売を続けることになり「高津商店製網部」として、名実ともに製網事業に徹することとなりました。これが当社の「第2のスタート」であります。

新築になった新地工場
海より見た岬之町本社

大正8年8月17日に会社組織への改組が画され、株式会社高津商会が設立。翌9年6月19日、“日本一の漁網会社を目指す”との目標のもと社名を「日本漁網船具株式会社」と改称しました。

2.事業の拡大

改組以降、漁網部門は工場施設の拡充を図ります。大正9年、下関上新地町の土地1,200坪を借り受け、埋立て整地のうえ、撚糸工場・製網作業場・倉庫などを新築しました。またこの頃、北洋への進出も行われました。母船式カニ漁業が活発化する函館に拠点を設け、カニ工船への資材供給をおこなうとともに、道内各社への漁網販売へも取り組んでいき、当社の販売基盤を強固なものにしていきました。

カニ刺網の仕立て作業
免許船燈製造所

会社発足とともに新設された船具部は取扱商材を急速に増やし、その種類は大正年間だけでも数千に及びました。食料品以外の船具、船用品、機器類のほとんどを網羅するようになり、大正11年にはトロール船向けに潤滑油の取扱いも始めました。後の石油事業に発展します。

3.動乱の時代

昭和の時代に入ると、日本は動乱の時代を迎えます。金融恐慌により、日本経済は厳しい状況下に立たされましたが、当社は大阪・戸畑の国内の二拠点に加え、台湾・北朝鮮にも営業所・出張所を設けるなど、積極的な営業展開により不況を切り抜けました。
昭和16年には太平洋戦争が勃発します。戦局は熾烈を極め、当社も複数の部門を廃止し動きをとれないほどまでに追い込まれました。しかし昭和15年の暮れ、陸軍航空技術研究所より航空機偽装網試作の依頼を受け、開発に成功しました。航空機偽装網とは航空機をすっぽり包み込み、敵機の目から遮蔽する網のことです。以降、航空機偽装網に留まらず、その他の軍用偽装網の受注も相次ぎ、戦局の熾烈化とともにその利用範囲は拡大しました。この軍用偽装網の生産により、当社は動乱の時代を乗り越えました。

偽装網をかぶった川崎油槽所タンク 偽装網の縫い付け作業

4.戦後の復興
(資材事業、機械事業、食品事業の誕生)

函館工場 サケマス母船明清丸甲板上での漁獲計量

戦後の復興の中、当社を取り巻く環境も大きく変化してきました。昭和27年、北洋漁業の再開にともない、サケマス・カニ網の生産で工場は多忙を極めました。また、合成繊維の登場は、戦後の漁網業界に大きな革命をもたらしました。当社でもナイロン、テトロン、ポリエチレンなどを、漁網へ利用するために研究を重ね、活況を呈していた北洋サケ・マス漁業に提供することで、その優秀性が広く認められました。
昭和30年代の水産業界は、大手の水産会社が総合食品会社への転換を目指した時代でもありました。この動きに伴い、取扱商材は食品包装資材や食品加工機械、食品分野へと広がることになります。

昭和35年船具部に誕生した物資課は、大手水産会社の総合食品会社への移行を背景に、食品包装分野に進出しました。船内冷凍作業工程での耐水ダンボールの活用に注目が集まる中、原紙メーカー、水産会社、当社の共同研究チームにより、商品化に成功し、いちはやく実用化しました。水産以外の分野では、建材需要の増大を背景に、メーカーとタイアップして独特の品質を誇る建材用塩ビフィルムの販売に乗り出し、やがて建材以外へも販売分野を拡大していきました。

耐水ダンボールの船積み
ソーセージの生産

食品加工機械への取り組みは、昭和36年に総合食品工場の設備機械を受注したことに始まります。高度成長とともに日本の加工食品市場が著しい伸びを示し、当社はすり身加工船向けに各種処理機・加工機械を提供するほか、陸上においても水産加工機械の販売を展開しました。

食品の分野では、昭和42年から冷凍すり身の本格販売を開始しました。これまで利用価値の低かったスケソウダラのすり身は、水産加工食品の花形であるカマボコやチクワの原料として評価を受けました。

5.ニチモウの誕生

昭和初期から著しい伸長を見せていた石油事業は、当社独自の商標「キグナス」をつけた潤滑油の販売を開始し、後のキグナス石油につながりました。昭和24年に石油元売業者の指定を受け、キグナスマークのガソリンスタンドを展開、昭和33年11月には日網石油精製株式会社を設立し、石油精製事業への進出も果たしました。

ニチモウ石油精製のプラント
キグナス商標
新社名 ロゴ

昭和46年にキグナス石油が設立され、日本漁網船具の発展を支えてきた石油部門は分離されました。キグナス石油設立の翌年、昭和47年2月1日を期して、大正9年以来、50年余りにわたった「日本漁網船具株式会社」という社名が、現在の「ニチモウ株式会社」に変更されました。新生「ニチモウ」のスタートです。

6.200海里時代の到来

昭和50年代の200海里規制の始まりは、日本の水産業界を襲った最大規模の衝撃でした。漁業の構造変革に対応した体制の整備を迫られたニチモウは、沿岸漁業へ展開する方針を打ち出し、全自動乾海苔装置「ワンマン」を開発、海苔養殖の省人・省力化の実現により、大きな反響を得ました。200海里規制により苦境に立たされていた海洋事業部門に大きな利益をもたらした「ワンマン」は、救世主的な存在でありました。

ワンマン機による海苔の生産
米トロール船のスケトウダラ漁獲

200海里規制により、大手の水産会社は従来の“獲る漁業”から魚を輸入する“買う漁業”にも力を入れ、体質を変化させていきました。ニチモウも、すり身をはじめ、助子、カニなどの原料買付を手がけ、食品事業を拡大していきました。やがて、原料販売から一歩進みその加工と製品販売にも乗り出し、川上から川下まで、トータルにサポートする今日の食品事業が形成されていきました。

はねうお切り身

“獲る漁業”の衰退は、“作る漁業”の発展にも繋がりました。昭和55年のアメリカからのギンザケの発眼卵輸入に始まり、その後ギンザケ養殖事業へと発展しました。これが軌道に乗ると、養殖事業に本格的に乗り出し、バイオテクノロジーを駆使した魚種の改良、さらに飼料や飼料添加物の開発が推進されました。

店内水槽で泳ぐギンザケ

7.新たな分野への進出

アグリマックス

平成に入ると、養殖事業での魚の餌の研究がきっかけとなり、独自の技術によって生まれた発酵大豆「アグリマックス」を開発、販売する目的でバイオティックス事業に参入しました。現在のニチモウバイオティックス株式会社に発展します。またグループ会社に、西日本キャリテック(現在のニチモウロジスティクス株式会社)を加え、物流事業にも参入しました。

8.東日本大震災

平成23年3月11日、東日本大震災が発生し、大きな被害を受けた東日本の漁業体制を再構築するべく、水産庁は漁業復興プロジェクトを立ち上げました。ニチモウもこれに参画し、漁網、副資材等の漁具全般の供給を通じ、“がんばる漁業復興支援事業”に携わっています。また、ニチモウは宮城県と共同でがれき回収網を開発し、震災復興へ向け尽力しました。

東北地区でのギンザケ養殖
がれき回収網

9.これから

ビル外観

幾多の困難を乗り越え、水産業と共に発展してきたニチモウは、2019年(平成31年)8月17日、創立100年を迎えます。国内漁業の衰退、国民の魚離れ、海外との競合など、現在の水産業が抱える課題は山積みですが、「豊かで健康な生活づくり」のため、日々邁進してまいります。